二百四十枚あるその小説を次号の『オール読物』に掲載したいから、三分の一くらいの長さにカットしてくれないか、と池島さんは私に注文を出した。私は、自分が二百四十枚の長さに書いたのは、そうするのが適当だと思ってやったのだから、とても自分の手で刈り込みはできません、と断った。
「それもそうだね」と池島さんはもう一度頷いて、「じゃ僕がやってあげましょう。でも、そうなると僕の方がカンヅメになっちゃうなあ」
すぐ心よく引き受けてくれて、池島さん自身が刈り込みの作業をやり、次号の『オール読物』に掲載してくれた。池島さんは当時、既に編集局長と本誌の編集長を兼任していたが、名編集長として文藝春秋の一枚看板みたいな存在であった。だから、私の受賞作がまだ出版社もきまっていないときくと、
「出版もうちでやりましょう」
と私に請けあった。しかし、私の受賞作は、とうとう文藝春秋から出版されなかったばかりでなく、今日に至るも、私の本の中で文藝春秋から出版されたものは一冊もない。私は何も知らなかったが、池島さんの羽ぶりのよさに、当時、出版局長をしていた車谷弘さんが反感を抱いており、池島さんが私に出版のことまで請けあったことを知ると、これは自分の縄張りだから何が何でもうちでは出さない、と突っぱねた。私にしてみれば、とんだとばっちりであるが、結局受賞作はほかの出版社から出した。ずっとのちになって、文藝春秋の出版部から、私の新聞連載を本にしないかといわれたことがあるが、他社とのつながりが強くなってもいたし、既に出版元も決定したあとだったので、ご希望には残念ながらそうことができなかった。ホンのちょっとした行き違いで人間のつながりは異なった方向へ向かってドンドン走り去ってしまうものだ、という見本みたいなものである。
出版については遂に文藝春秋と縁がなかったが、池島さんには非常に可愛がってもらった。
芥川賞、直木賞の受賞式というと、昨今はお祭り騒ぎで、テレビも新聞もいっせいに押しよせるが、私たちの頃は、賞金十万円とロンジンの腕時計一つくれるだけで、集まるのも選考委員と文藝春秋の幹部の人たちだけであった。また、食卓にはサンドウィッチとビールが出るだけで、祝辞もなければ、答辞もなかった。確か、受賞の日、私が少し早目に出かけて行って池島さんと雑談をしているおりに、自分が台湾からとび出したいきさつを話し、
「日本人は自分たちは地獄に住んでいるようなことをいうけれど、僕から見ると、天国の話ですよ」
といったら、
「それだ。その話を『文藝春秋』に書いて下さい。"日本天国論"というタイトルでいきましょう」
と、速戦即決、その場で次号に載せることをきめてしまった。「日本天国論」はのちに中央公論社から単行本として出版されたが、三十枚ばかりの文明批評として『文藝春秋』に載ったのは、受賞直後の昭和三十一年の四月号であった。ちょうどその時分はいわゆる進歩派の学者の花盛りで、ついこの問まで一億玉砕を叫んでいたひとたちが変わり身早く平和を叫ぶようになり、身に危険が及ぶ心配のないのをいいことに、アメリカ人に悪態の限りをついているところであった。そういう卑怯者に対して、私は、
「所謂平和論者が存在している限り、彼等が日本をアメリカの植民地にすることから防ぐだけの力があるかどうかは知らぬが、日本がアメリカの植民地になっていない証拠にはなる。植民地ならば、彼等はとっくの昔に姿を消していると、かつて植民地に育った我々にははっきり断言出来るからである」
と書いた。すると、人の悪口をいうのが専門の大宅壮一先生が、「いまだかつて日本人によっても、日本に来た外国人によっても、これだけユニークな日本論が書かれたためしがない」
と口をきわめて私をほめちぎった。私はびっくりしたが、同時に、いくらか自信もつけた。おかげで、つぎつぎと文明批評や社会評論に手を染めるようになったか、そのきっかけをつくってくれたのが池島信平さんであった。

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