私が三回目に佐藤さんにお会いしたのは、日中航空協定が調印されて、内台航空路を日航も中華航空も飛ばなくなってからであった。時の宰相田中角栄も外相大平正芳も、中華人民共和国一辺倒になっていて、台湾側の代表と会おうとしなかったので、私は外交関係はともかくとして、飛行機だけでも再開するよう佐藤さんに特使として台湾へご足労願えまいか、と頼みに行った。代沢にある佐藤邸に伺ったのは後にも先にもこの一回きりで、私が佐藤さんに要件を述べると、「僕の兄貴か、僕のどちらか、だろうね」という。私は、「いや、岸さんでなくて、佐藤さんでないと駄目なんです」と念を押した。岸さんは蒋介石さんとつきあいがあって、しょっちゅう台湾に行っているが、台湾の人たちに人気のあるのは弟の方である。同じ兄弟でも徴妙なニュアンスの違いがあるし、佐藤さんは中華民国の国連代表権についても、終始一貫して賛成票を投じている。田中さんのように君子豹変したりしてはいない。だから台湾では、「田中」という駅名まで変えようという議論が出たくらいだが、佐藤さんの悪口をいう人はいない。
佐藤さんはすぐその場で安請合いはしなかったが、間もなく蒋介石が他界し、その葬儀に参列するついでに、蒋経国とも会談をする機会をもった。やがて日台航路の再開が具体化し、人民政府と台湾政府の飛行機が成田で鉢合わせするのは具合悪いという配慮から、中華航空だけ羽田に残るという特別の措置がとられた。「人間万事塞翁が馬」というが、羽田に残ったおかげで、サービスの悪い中華航空が便利さを買われて繁盛しているのだから、世の中、何が幸いするかわかったものではない。
しかし、佐藤さんは、そのときはこの世にいなかった。その前年、ノーベル平和賞をもらい、ご本人は至極ご満悦だったが、ジャーナリズムからはさんざ皮肉られた。新聞に悪態をついて退陣したいきさつからみてやむをえないことであるが、公平にみて、戦後宰相の中では名宰相の方に属する人であろう。少なくとも金権政治を表面に押し立てた人だとか、本をまったく読まず、ゴルフ三昧にふけって未来に対するビジョンなどひとかけらもない人よりは、数等上であることに間違いはない。
佐藤栄作さんにはとうとう家へ来てもらう機会がなかったが、元宰相夫人の寛子さんには、何回かおいでいただいた。どうしてかというと、私は新聞雑誌に出てくる佐藤夫人の言動に好意をもっていたからである。栄作さんの戒語によると、「言葉の多き。口のはやき。さしで口……」ということらしいが、鉄道省出身の野暮ったい宰相に金時の腹巻きのような太いネクタイをさせたり、自分が膝上三センチの、ミニスカートをはいて話題をまいた夫人は、その頭の回転のよさや早とちりのところが何とも愛嬌があった。おそらくこの奥さんがいなかったら、佐藤さんの人づきあいはもっとギクシャクしたものになっていたのではないかと思う。

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