表現力というものは、自己を他人に知ってもらうためにいちばん効果のある才能で、孔子自身、「徳のある者は必ず言がある」と言っている。これに対して、「文章は意味が通ずればよいのだ」ということばは、おそらくはるかに歳をとってからの感想で、表現力過剰のために青年期から壮年期にかけての孔子はかえって損をしたのではないかと私は思っている。なぜならば、文学青年の本質として、彼は文化至上主義をいだいていたが、それを露骨に表に出すことが、かえって彼を薄っぺらな人間に見せただろうからである。
彼はいろいろな書物のなかで、おそらくはいちばん『詩経』を愛していた。「詩経にのっている三百の詩は一言でいえば、無邪気なものだ」と言っているくらいならまだよいが、
「これこそは政治に応用のきくもので、もしこれを暗誦していながら、他国に使いして、独断でことを決することができないようなら能なしだ」と真顔で言い張るに至っては、それ自体に意味があるとわかっていても、青臭さが鼻につきすぎる。「詩で興り、礼で立ち、楽で成る」ということばにも、彼の文学的青臭さが強く、現代の編集者ならずとも、「あいつは文学青年だ」と評したくなってしまう。
彼はまた音楽を愛した。人の歌うのを聞いて気に入ると、何度でも繰り返させ、それを覚えた。
齊へ行ったとき、舜の音楽と伝えられる韶という曲を聞いたことがあった。彼はそのすばらしさにすっかり魂を奪われ、そのため、三ヶ月間も肉の味を忘れて、
「まったく、まったくこんな美しい音楽はない」
と嘆じたそうであるが、これが文学的表現であるとしても、孔子が感受性の強い男であったことには間違いはない。
しかし、彼の好きな音楽をただ楽しむためではなく、逆用した記録が『論語』のなかに見えている。それは孺悲(じゅひ)という男が孔子を訪問したときのことで、孔子はこの男と面会したくなかったので、「病気だから」と召使いに言わせた。病気とは電話がかかったときに不在ですと答えるのと同じ意味であって、中国の政治家たちは必ず心臓病とか痔病とか自分にいちばん似合った持病をアクセサリーとしてもっている。そして、収賄事件が暴露したときとか、政変の起こったときには、情勢が一段落するまで病院という安全地帯に駆け込むのである。
孺悲がどんな男であったかは知らないが、おそらく孔子が憎んで「徳の賊」と面罵していた律義者の田舎紳士ではあるまいか。孔子は病気と言っておいて、相手が帰ろうとすると、琴をとり出して、それを弾いて、自分が病気でないことをわざわざ知らせたのである。
これなどはいかにも文学青年のやりそうなことである。
『論語』の記述のなかには、孔子が物に動じない聖人君子であるという話よりも、情緒豊かな感情家であったというゴシップのほうがはるかに多い。
坂口安吾は雷が大嫌いで、雷が名物のような桐生に住みながら、雷が鳴りはじめると、自動車に乗って逃げまわったそうであるが、孔子にもそんなところがあった。ただ孔子の時代にはまだ自動車が発明されていなかったので、顔面蒼白になってガタガタ震えただけである。
彼は喪服を着た人に会うと、それがよく知った人であっても、ふだんのような狎れ狎れしい態度がとれなかった。身分の高い者やつんぼに出会うと、公式の席上でなくても真剣な表情になった。車に乗っていて喪服を着た人を見ると、車の中から最敬礼をしたり、公文書を持った男に会っても最敬礼をした。宴会に招かれた場合は緊張のあまり顔の色が変わった。
孔子の愛すべきは、感情を隠さないことである。もしくは隠すことができないほど豊富なものを持っていたことである。これが彼をキリストのようなロマンチックな神秘家ではなくて、あくまでも人間の側に立った実際家にしたのであるが、その感情が最も極端な形で現われるのが人の死に際会した場合である。彼もまた人を愛することを説いたが、その愛し方は自己中心の、相当エゴイスチックな愛し方である。
たとえば、彼がほとんど同性愛と思われるほどかわいがっていた門弟の顔回が死んだとき、門弟たちが盛大な葬儀をやろうとすると彼は反対したが、門弟たちは彼の意見を無視してそれを強行した。
「これはわしの意志ではない。顔回は自分を父親のように愛してくれたが、わしは自分の子供のようには思えない。あんな人騒がせな葬式を出したのは弟子たちのしわざだ」
また顔回の父親が孔子の車をもらって、棺桶の外棺に代えたいと申し出ると、彼は即座に反対した。出来不出来はあっても、親ともなれば、みんな自分の子供のほうが可愛い。
自分の子供の鯉が死んだときも棺桶を買ってはやったが、棺桶を入れる外棺を買うために車を売りとばすようなことはしなかった。まして自分は大夫の末席をけがした男だから、葬式のときに歩くわけにはいかない、というのが彼の反対理由である。
そのくせ、彼は顔回をきわめて激情的な形で愛していた。顔回が死んだとき、彼はまったく自分を忘れて、大声を張り上げて泣いた。
「ずいぶんお泣きになりましたね」と召使いに言われて、
「そうだったろうか」とはじめて気づいたほどである。しかし、彼はそれを隠すどころか、
「わしは顔回のために泣いたんだ。でなければ、あんなに泣くものか」
と言った。そして、いつまでも、
「天はわしを滅ぼした、わしを滅ぼした」と繰り返したのである。
つまり彼は感情家ではあったけれども、いわゆる「いかれ型」の感情家ではなく、自分の愛情に対しても、つねに一定の距離を保つことのできる冷たい目の持主であった。
『礼記』檀弓篇の記述によれば、彼が衛に行ったとき、前に泊まったことのある宿屋の主人が死んだ。彼は弔問に行って泣いて悲しみ、外へ出ると、子貢に馬車につけてある馬をといて香奠(こうでん)にするようにと命じた。
「弟子が死んだときだって、師匠はそんなことをしたことがないじゃありませんか。宿屋の主人に馬をやるほどのことはないでしょう」
すると孔子は、
「さっき、わしは中へ入ったら、ちょうど、みんなが泣いているところだった。それに誘われて、突然悲しくなって涙がとめどもなく流れてしまった。こんな理由のない涙が憎らしい」
と言って、自分の涙の代償として馬を贈らせたのである。
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